詩と詩人。

詩、というものを書いたことがない。

勿論、たぶんだが小学校の時に書きなさいといわれ書いたことがあるかもしれないのだが、そのことは全く覚えていない。

ノヴァーリスの「青い花」などを読んでいると、中世ドイツでは王侯貴族の前で詩の出来栄えを競い、負けた者は「死を賜る」などという、今の感覚では驚きの重要度を「詩」というものが持っていたことを感じる。

転じて現代。詩人で医師の駒ヶ峰朋子さんの本(死の医学)を読んでいて印象深かったのは、現代の詩は読者として詩人しかもっていない、という記述である。いまや、詩を作る人のみが詩を味わっているのだ。詩を味わうには、詩人の魂が必要なのだ。

因みに詩は、閉じた空間で本が編まれ、詩人同士お互い楽しく過ごしている旨記載されており、それを見て一瞬大変にうらやましくも思ったのだ。

そう、この日記で詩のことを書こうと思ったのも、その「うらやましさ」が契機である。これと似ているな、と思ったのは美術世界。美を創る人は、美を積極的に楽しむ人でもある。猫を飼う人が外猫も積極的に愛するように(違うか??)。

なぜに詩が現代それほど重要視されていないのか、と前から思っていたのだが、考えてみると当たり前かもしれない。

例えば本が高価で庶民が所有できなかった時代。そしてそもそも字が読めないものが多い時代。記憶をもとに長大な叙事詩や抒情詩を歌い上げる詩人は、いわば「一人物語劇場」であるわけだ。ある意味戦前?の紙芝居とも似た部分があるだろう。

そこでの「詩人」は今の「詩人」とは違っている。今の詩人はいわば詩人という機能が持っていた多くの機能がそぎ落とされ、一番詩的で純粋な部分のみが残っている状態かと思う。

なので、そうした「純粋さ」を味わえる「純粋な」魂、いわゆるうたごころ、詩的な感覚の持ち主のみが詩を愛する、ということになっているのだろう。

詩は、歌詞、という意味ではいまだ人々に身近な存在ではある。だがもはやほとんどの人は歌詞は詩の一部であると思うかもしれない。歌があって初めて歌詞がある、という風には思っているかもしれない。勿論歌詞をしみじみ聞く聞き方もあるのだが(演歌とか)。

今気が付いたが、そもそも歌詞、という語の「詞」は「詩」ではなかった。なんとなく「詩」だと思っていたのだが、勘違いであった。

詩を音楽に合わせたものが歌、もしくはその逆、ではあろうが、その時の歌詞は「歌詩」ではもはやなくなっている。

 

思いつくままに述べてきたが、「閉じて楽しくお互いの詩ごころでもってお互いを鑑賞しあっている」であろう詩の世界、すこし覗いてみたい、気がしている。

(そういえば、茨木のり子さんの詩は大好きでしたね。ノートに書き写したりしています)