西田哲学の一端に触れる。

さて、哲学と呼ばれるものにあまり接することがなかったのはなぜだろうか。

そうしたものを読むべきだ、という雰囲気がまず周りにまったくなかったこともあるだろう。

哲学を読んでいる、というひととは、いままでの人生で一人も会ったことがない。

これが普通のことなのか、あるいはそうしたことを人は人にいわないものなのか。

同じく、日常生活で絵を描いています、というひととも(こちらから例えば工房や教室にアプローチしない限り)ほとんど会ったことがない。一緒に美術館でも行きますか、という関係は全くない。

(もちろん版画工房の仲間と行くことはありましたが)

先般行った16キャラクターでは、私の「仲介者」という性質は、人口の4%であるようだ。100人中4名。25人に一人いる計算なので、例えば30人の学級だとすると1名か2名となるだろう。なるほどこれでは出会うわけがない。

漫画好きとはまあまあ出会った。これは漫画が好きで日々学校にもっていって読みまくっていた結果、それに気づいて「貸してくれ」という友人が何人か出てきた、という経緯である。まあ、漫画好きにはたまに実際に描く人が含まれるはずだが、そういえば数人はいた気がする。

この「仲介者」という性格は、哲学なども好むようだ。なるほど、すいすい読み進める小説に慣れすぎていたころは、文章の密度(小林秀雄など)について行けず、歯がたたなかったものだが、ゆっくり読むようになって、あの独特の魅力がすこしずつわかってきた気がする。

最近は鈴木大拙が好きで、そこから(大拙の奥さんつながりもあり)神秘学にも興味が湧いて、そこからインドの神秘思想やケン・ウィルバーなども読んできた。

西田幾多郎はご存じ鈴木大拙の無二の親友であり、お互いに深く影響しあった関係である。お互いの存在とその言動が、自己の考えの発端や深化、進化にも役立った、というところだろうか。

個人的には今だ西田哲学は全然わかっていない。大拙の思想と西田哲学がどのような形で呼び合いシンクロしたのかもわかっていなかった、のだが、

たまたま手に取った「新プラトン主義」の本で、西田哲学の端っこに触れることが出来た気がしてる。西田哲学の魅力を一読者として興味をひきたてられた、というところである。

すこし長くなるが、気になった箇所を引用する。引用元は「新プラトン主義を学ぶ人のために」2014年 世界思想社刊である。

P.117、板橋勇仁氏による西田哲学とプロティノスの「一者」との関係を論じた文である。

西田哲学の処女作「善の研究」(1911年)は、「純粋経験」を基にした哲学的体系の構築を意図した書である。西田は、主観(自己)と客観(世界)とは唯一なる実在の相違なる両方向であるとして、この唯一なる実在を一なるままに直接的に自得することこそが、ありのままの具体的事実をそのままに知る「純粋経験」である、とする。そしてこの経験は、自己が神において永遠の生命を得ることであり、神と一になる事実の現前であるとする。この「神」について西田は、神とは「宇宙の外に超越せる造物者」ではなく、「直にこの実在の根柢」であり、この意味で「神は宇宙(実在)の統一者であり、宇宙は神の表現である」(1:P.182 旧版「西田幾多郎全集」第一巻 岩波書店、1965年)と述べる。ここでいわゆる「統一者」とは、「統一的方面と被統一的方面とを自らの両方面として包含するもの」という意味である。したがって、西田にとって神とは、あらゆる区別、あらゆる個別を自らにおいて包含する唯一実在全体それ自身としての統一者であり、いわば一者そのものである。それはあらゆる個別的存在において働き、自らを表現している。

110年前の西田の著作であるが、そこからなんというか西田の熱い感情まで伝わってくるような気もちがする。神とは一であり、一者であり、統一者であり、あらゆる個別的存在にあるものである。

これもあれも、時間も宇宙も、わたしもあなたも、このシャーペンも、統一者であり、一者である。そうか、そうだったのか。

そんな気がしてくる。

まあ、人はどのように感じるのかは自由である。私のいまの気分は、110年を経て西田の思いに、シンクロしている気がしている。

(おこがましいですが。。。。)