アガンペン。
最近あらためて思っている。読書は素晴らしい。
メディアが違っても、結局そのものが言っていることが、有用なのか、心に訴えるのか、啓発されるのか、新しい気づきを貰えるのか、という点だけが重要だ。
それは、もちろん、映画でもいい。マンガでもいい。SNSでもいい。テレビでもいい。
だが、GOODなものを引き当てる率がとても高いメディア、それが読書である、ということだけなのだ。
ちょっと考えてみるとわかる。
読書には、膨大なストックがある。これは量であるとともに時間のストックでもある。
SNSは同時代の人の考えていること。映像も大概はそうだ。だが、読書であれば、文字が発明される前の口伝でさえ、文字発明後は文字化されているのだ。翻訳機能がアップデートされ、電子書籍が当たり前となるであろう数年後、文字を語り書籍化した今までに世界で生きて来た、それこそ今生きている人類の総計を何倍にもしたようなものが、書籍の、本の母数となる。著者がその人生の中で、最もよいと思ったものを、心を込めて、いわば絶筆として、書籍化がなされてきた。そうした力のある書物が、そうした書物だけが、古典として時代の選別を経て、われわれの前にある。
池田晶子さんが、古典を読みなさい、とおっしゃった所以であろう。
質がいいに、決まっている。
SNSは今はやはり大きくみると創世期であろう。それをネタに金を稼ごう、という意志が色濃くいまだ染みついている。
これは別に、悪い事ではない。
当たり前なのだ。数十年前は、マンガはその存在さえ、疎ましく思う者が当時の大人の大多数を占めていた。
今はどうだ。
日本の主な輸出製品は、アニメとマンガとゲームです。クールジャパンです。
どの口が言っているのか、とあほらしくなるくらい、手のひら返し状況だ。
だが、これこそ、この手のひら返しこそ、マンガは本来コンテンツの一つであり、そこに優秀な作品が含まれている、ただそれだけのことなのだということを、示しているのだ。
冒頭で森博嗣氏の言葉を引用した。テレビも新聞もない生活を続ける氏の日常は、本を読むことだという。極度の遠視を確か成人まで把握されておらず、幼少時は遠視過ぎて本の字は一文字一文字ずつしか追えなかったせいで、本を必死で時間をかけて読めば逆に一読全てが頭に入る。
象徴的だ。どんどん文字を読んで消化することは、果たして知識となっているのか。
頭に、刻めるのだろうか。
個人的には、ほぼ無理である。すぐに、忘れてしまう。
立ち止まって、気になる箇所を書き写し、それを読み返すということをすることでしか、記憶に残らない。
つまりは、すごく時間が必要だ、ということである。
だが、そんな読書はとても楽しい、とも最近は思っている。
前は一日に何冊読んだ、などと誇っていたものだ。アホやったなあ。。。。。。
(森博嗣氏の本を読むと、その理系的視点が全く新鮮で、考えたことがない点ばかりです。本が文系によってコントロールされてきた世界であることが、客観的にわかってきました。あ、タイトルのアガンベンは、その著書を読み進めるスピードが大変遅くなる、良書の良い例です、ということを言いたかったんです。そこまでたどりつきませんでしたが)