プロセスがすべて。
今朝の体重63.9kg、体脂肪率11.9%、筋量53.4kg(だったかな?)。
朝と帰宅後では当然筋量が違う。これはやはり体を動かすとタニタの体重計は例えば足の筋肉を筋肉と認識し、夜寝ていると、足の脂肪を脂肪と認識するのかな、と思っている(同じ部分)。
であればその一日で筋肉になったり脂肪になったりする部分は果たして筋肉なのか脂肪なのか??
全くわからない。
まあ、いいか。
夏にスーツで一日1万歩、でやっていると、つい汗だくで足がつることが多かった。日々痩せていき、62キロを切ったので64キロまで体重を上げた。上げたのだが上げた部分は主に下半身、というか下っ腹に沈殿する。これはあきらかにぶら下がり足上げなどをやっていると実感する。下半身が重いのだ。
まあ、痩せるときに筋肉がエネルギー化するよりはいいので、すこしは備蓄しておくことにしようか、と思っている。
62キロの時は喜んでザンギなどをばくばく食べていた。体重が減ると適正体重までは逆貯金というか、正貯金というか、適正まで食べることができる、という気持ちになる。こうした「心の余裕」のために、さまざまなことをやっている気がする。
これが、プロセスだ。
将来の姿を夢に描き(夢だが微に入り細にわたり明確化する)、それに向かっての日々の一歩(仮に小さくても)を焦らずおこなうこと、このことが、あるいは「このことだけが」幸福、というものなのだ、と思う。
上手くいくかもしれない、というわくわく。
上手くいかせるために、一歩ずつ努力している、という感覚。
少しずつ進化しているような、小さな実感。
一歩が小さければ小さいほど、「これは小さいので日々できるな、無理ではないな」という感覚が得られやすいことと、その感覚自体。
夢や目標が微に入り細にわたっていれば、その具体化の際に細かい進化項目が見つけやすく、取り組みやすいこと。
そうした気持ち自体が、プロセスの本質であり、幸せ、と同義なのである。
これは、わたくし調べ((笑))でいけば、例えば運動。一日何歩歩く、という目標。絵画制作であれば、とにかく毎日描くこと(一筆でもいい。あるいは素晴らしい過去の作品を見るなど=ダビンチやラファエロなど)。こんなことを無理なく繰り返していると、これは気分がいい。
歩数は通勤していれば、エレベーターやエスカレーターの存在は一旦忘れ、階段しかない、と思えばいい。一駅前で降りれば、数千歩はかせげるのだ。
このあたりは仕事でもいえるだろう。
勝間さんもこうおっしゃっている。
そう、プロセスこそがすべてなのだ。結果は「あとからついてくる」などというのだが、そもそも結果は不要といってもいいくらいだ。結果というと、それで終わり、という語感がある。終わってしまってはいけないからだ。
(そのために一日に少しでも時間を割り当てる必要もありますね。通勤というものは、満員電車は悪評しかありませんが、無理やりでも歩く、という部分だけみれば、すこしはいい面もありますね)